蓮の花 寺めぐり
当寺院を彩る蓮の花
皇居和蓮/唐招提寺瓜蓮
四季折々 楽しめるお花
- 桜
- アジサイ
- 蓮
- サルスベリ
大長寺の見所は?
大仏
享保12年(1727)に鋳造された「露座の大佛」(ギャラリー6枚目の白黒写真/大正7年撮影)が元々ありましたが、戦時中の昭和19年に金属資源として供出されてしまいました。
現在の大仏(ギャラリー3枚目)は檀信徒の協力によって平成8年に、一まわり大きくなって復元された金銅仏です。
祐天桜
怪談「累ヶ淵」で累(かさね)の怨霊を成仏させる祐天上人。江戸中期に活躍した高僧で、庶民だけでなく将軍家や大奥、諸大名からも帰依を受けて、六代将軍家宣公の命で大本山増上寺の第三十六世住職となります。その増上寺住職時代のお姿の像(ギャラリー5枚目/非公開)が当寺で見つかり、それを記念して平成31年に東京目黒の祐天寺から「祐天桜」を贈られました。祐天桜については大仏前広場に植わっている祐天桜の石塔裏をご覧ください。
なお、祐天上人像が当寺に伝わった理由は不明ですが、祐天上人の活躍を書いた元禄時代の書籍『死霊解脱物語聞書(しりょうげだつ ものがたり ききがき)』の著者「残寿(ざんじゅ)」と同名・同時代の住職が9代目におり、また作中の登場人物のうち2名が当寺の6代目・11代目住職と同名・同時期であることが関係しているのかもしれません。
大長寺は
どんなお寺?
※御朱印について
書籍などに掲載されることが多い「渥美大童氏の版画」御朱印は終了していますので御注意ください。
現在は諸尊をテーマとした8種類の「書置き」のみを正面玄関先で頒布しております。
宗派 | 浄土宗 |
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開山 | 等蓮社順誉上人岌善大和尚(京都 百万遍知恩寺 第二十九世) |
開基 | 斎条村の農家 原口与右衛門 |
中興 | 中興 第八世 心蓮社深誉上人法殘和尚(元禄の頃) 後中興 第十八世 光蓮社得誉上人心阿愚童慈眼和尚(享和・文化の頃) |
当代 | 第三十世 島恭裕 |
本堂 | 昭和58年9月落慶 鉄筋コンクリート造2階建て |
本尊 | 阿弥陀如来 |
伝承
浄土宗本山の一 百万遍知恩寺(京都)の二十九世となった岌善(ぎゅうぜん)上人が、天文年間(1532~1555)に京都から奥州方面へ巡教の旅をしている途中で行田斉条村の原口家の元に逗留したそうです。
ある日、街中での辻説法が終わり、聴衆がみな帰ると老人が一人だけその場に残って岌善上人の説法に感謝し、上人の教えを残す寺を建てる為に土地を捧げると約束します。
老人は、「私は長きにわたって小沼に棲む亀なのだが生まれ変わる時に、棲みかの沼地を埋めて平地となし、お寺が建つ土地を作りましょう」と言って1丈(およそ3m)あまりの大亀となって去って行ったそうです。
実際に原口一族の援助を得てお寺の建物を建てたのは岌善上人の弟子で第二世 岌道(ぎゅうどう)和尚のようです(元亀3年頃か)。
大亀が沼地を埋めたとの伝承ですが、現在でも穴を掘るとこんこんと水が湧き出るような土地です。
そして境内南側にあった「阿部豊後守手植え松」の根元から、昭和16年頃に地下水に空気を遮断されて腐敗から保護された若武者の死蝋(しろう)化遺体が発掘されています。
大きな四角い棺に正座した姿で納まっていた若武者は、年のころ15~16歳くらいで生前の顔つきまで良く分かる状態だったそうです(ギャラリー7枚目、8枚目を参照)。
この若武者が誰であるかは伝わっておりませんが、文政6年(1823)に17歳で亡くなった忍藩阿部家9代目藩主の正権(まさのり)公が、正史の期日よりも前に逝去していたという噂が既に同時代にあったことから、死去を隠された阿部家の若殿様であった可能性もあります。
世継ぎを残さずに突然死した場合、養子縁組を整えて幕府に認められるまでのあいだ生きていることにしないと、阿部家は御家断絶ということになるからです(幕府が取り決めていた「末期養子(まつごようし)」の制度には17歳以上という年齢制限がありました)。
藩祖阿部忠秋公手植えの松の根元に葬られていた若武者は、阿部家とその家臣たちを守るために死を隠された若殿様であったのでしょうか。
今となっては誰にも真実が分らない大長寺の逸話です。
南無阿弥陀仏
文化財
市指定有形文化財 芭蕉句碑 「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
アクセス
〒361-0073 行田市行田23-10 | |
048-553-0466 | |
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