清善寺(せいぜんじ)

清善寺

蓮の花 寺めぐり

当寺院を彩る蓮の花

清善寺蓮/廬山白蓮/一天四海

四季折々 楽しめるお花

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清善寺は
どんなお寺?

宗派曹洞宗
開山熊谷市上之 曹洞宗太平山 龍淵寺五世 大翁宗佐大和尚
開基忍城主成田氏14代 成田顕泰の弟、 成田顕忠     雄功院殿信甫全忠大居士
中興
当代平田山 清善寺三十四世  英峰健人(菅間健人)
本堂
本尊釋迦如来坐像       脇侍           文殊菩薩坐像       普賢菩薩坐像       (木造寄木造り)     大仏師法橋康祐 作 (延宝8年(1680))

伝承

當山は熊谷市上之、曹洞宗太平山龍淵寺の末寺で平田山清善寺と称する。本尊は釈迦如来三尊と祀る。
寺院草創は忍城主成田氏14代顕泰の弟、顕忠で深く仏教に帰依し、清善齋全忠と号して忍城東側に平田精舎と称する館を造ったことに始まる。(永享12年(1440))
当地は武士が仏学を学ぶ場所でもあったが、永正16年(1519)5月8日に顕忠が逝去すると、忍城主15代親泰はその死を悼み、遺言通りに館を寺となし、一寺となる清善寺を創建するに至った。その後、成田氏16代長泰の代に堂宇建立が一通り終え、天文2年(1533)3月27日に龍淵寺5世、大翁宗佐和尚を迎えて開山とした。
石田三成忍城水攻めの後、成田氏は会津蒲生氏郷の家臣として当地を離れると、続いて城主を務めた松平忠吉(徳川家康の4子)も深く當山に帰依し、後に尾張清洲城62万石の城主に移封になった時も清善寺と長野の長久寺と持田の正覚寺をそれぞれ分寺した。
現在の堂宇については創建当初の建物は存在しない。なお朱塗りとなる山門は忍城主阿部氏7代正識(まさつね)(豊後守)の寄進にて建て替えられたもので、正識が忍藩主となった天明7年(1787)頃のものと考えられる。
山門額 指月慧印書 「拈華林」※元禄2年(1689)~明和元年(1764)

末寺 
行田市荒木 聖徳山天洲寺 清善寺5世 天洲全堯開山
行田市小見 小見山嶺雲寺 清善寺6世 明嶺理察開山
行田市渡柳 神明山長福寺 清善寺8世 鐵叟澗牛開山
鴻巣市北根 赤城山清法寺 清善寺5世 天洲全堯開山
羽生市新郷 高木山祥雲寺 清善寺7世 大庵護奕開山
名古屋大須 興國山大光院 清善寺6世 明嶺理察開山

清善寺に眠る著名人

〇吉田庸徳
 弘化元年(1844)~明治13年(1880)幕末の忍藩士で数学者
 忍藩士吉田八十五郎の元で生まれる。忍藩の田中算翁から数学を、芳川春涛から英語を学んだ。その後江戸で大鳥圭介に洋学を学ぶ。文久元年に(1861)忍藩藩校培根堂教授となった。維新後上京し本所に学校設立を計画するも1880年病死。

〇大澤龍次郎
 1887~1974 実業家 大澤証券創業者
 呉服商大澤屋の番頭大澤新兵衛の長男。明治33年忍進脩館尋常小学校高等科を卒業後東京の綿布商の小僧となり39年証券業の店員となる。後2年間の軍隊生活を経て42年株式界唯一の業界紙「経済新聞」の社長小泉策太郎の秘書として活躍。大正6年公債株式現物問屋大澤商会を開設、8年には東京株式取引所仲買人の権利を買い大澤龍次郎商店を開業、昭和19年大澤証券株式会社に改称社長に就任。
 昭和6年父の供養に當山に無縁塚を建立、翌7年5月8日に地蔵尊を安置し、大石観法老師を請して入仏式を行った。また4年には開業10周年記念に現在の商工センターがあったところの火の見櫓に警報のサイレンを付けた時警塔を寄付、またこの時警塔に夜9時半にチャイムを鳴らす設備「愛のチャイム」を寄付した。33年名誉市民に推挙、水城公園に銅像がある。

〇髙城駿
 忍町町長。

〇奥貫賢一
 1906~2002 初代行田市長
 東京帝国大学法学部卒業後、大東亜省調査官、ハノイ総領事などを歴任。1947年、旧忍町長に当選し、県下6番目の市制施行を実現。上下水道等の都市基盤整備、周辺町村との合併、地場産業の振興等を進め行田市の礎を築く。行田商工会議所会頭、埼玉県公安委員会委員などを歴任する一方、私塾「奥貫教室」を開講し青年に政治経済を論じた。

文化財

木造清凉寺式釈迦如来立像            (天保7年(1836)) 大澤永之 寄進

アクセス

〒361-0077
行田市忍2-8-18
048-556-3689
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